父は、僕が27歳の時にガンで亡くなりました。享年65歳でした。
僕は子供の頃は父のことは嫌いでした。
仕事人間で、家庭にあまり興味がない人でした。
けど今思えば不器用で、僕に似てて、憎めない人でした。
この記事は、そんな父の事、父が亡くなる前に起こった家族間のトラブルの話です。
別居→会社経営→末期ガン
父とは、僕が中二の時から別居状態でした。
元々、今の僕の実家でもある大阪のマンションで、両親・僕・兄・母方の祖母の5人で暮らしていました。
別居のきっかけは、ある日父が祖母に手を上げてしまった事が原因でした。
もともと2人の仲は悪かったのですが、ついに仲が最悪の事態になってしまったという感じでした。
それ以降父は京都の実家に住んでいました。
別居してまもなく父は、当時務めていた会社をやめて、会社を経営し始めました。
途中までは順調だったようですが、リーマンショックの影響で業績はガタ落ち。倒産の危機だったところをギリギリで会社を売却する事が出来ました。
しかしホッとしたのも束の間、会社経営時代のストレスからか大腸と肝臓にガンが見つかりました。既にステージ4で末期でした。
見つかってすぐ、手術で大腸のガンは摘出しました。
それでも、余命はあと2年程度だろうと言われていました。
亡くなる4ヶ月前に、兄に不倫をカミングアウト
父が亡くなる年の夏の日、父は兄を自分の家に呼び出しました。
その時に
- 死んだら兄に喪主をやってほしい事
- 自分には愛人がいる事
- 概ねの遺言書の内容
を兄に伝えたのです。
遺言書の内容は
「愛人に遺産の大半を、僕と兄に僅かながらの遺産を渡す。」
というものでした。
父は兄に、自分が死ぬまで母に不倫していることは言うなと伝えたそうです。
しかし兄はどちらかというと母寄りの思考の人なので、母にチクリました。
ここからが地獄の始まりでした。
屈辱の日々
父が兄を呼び出した日の3週間後に、大阪の実家にて母・兄・僕・祖母の4人で緊急の家族会議みたいなのが開かれました。
その時に僕は始めて愛人の件を知りました。
僕は別に驚きませんでした。
「まぁそりゃそうやろ」って感じでしたね。
それくらい、母の性格の悪さ・タチの悪さはとにかく筆舌に尽くしがたく、このトラブルも起こるべくして起こったと考えています。
この時すでに母と兄は、裁判で愛人の遺産の取り分を取り戻せないかと画策し始めていました。弁護士にも相談していました。
母はこの機に及んでも自分の被害者意識しかありませんでした。
子供に対して「こんな家庭になってしまって申し訳ない」という気持ちは微塵もないようでした。
母は僕には味方になる事を強要してきました。
「こちらの味方をしないと、お前には遺産は渡さん!」と怒鳴られたのは一生忘れません。
さらに2人は、僕のADHDの事を裁判で有利に運ぶためのダシにしようとしていました。
母が嫌われているだけの話なのを「ADHDの息子を残して遺産を愛人に貢ぐ父」という構図にすり替え、自分らが正義面したいが為に僕の障害を利用しようとしてきたんです。
母は普段から自分の子供に対する支配欲を満たす為に、何かと障害を大義名分に僕の生活をコントロールしようとしてきました。今もそうだけど。
それだけでなく、自分が夫に嫌われた事の責任逃れの為にも利用してくるとはね。
兄に対しても、10代の頃は散々俺をいじめてきたくせに、都合のいい時だけ障害を利用しようとするその根性に非常に腹が立ちました。
まさに屈辱の日々でした。
僕の遺産の取り分を奪おうとした母
兄を呼び出した4ヶ月後、父は亡くなりました。
原本の遺言書は、生前兄に伝えたのと同様の内容でした。
この地点で裁判を起こすかはまだ決断しておらず、一旦遺言書通りに遺産相続が行われました。
その際に事件が起きました。
母は僕の僅かな父の遺産の取り分を奪おうとしたんです。
「僕のためにお金を貯めようと思う」などと言って、遺産が振り込まれる予定の口座を管理すると言ってきたんです。
当然反対しました。
その口座を切り札に生涯僕をコントロールしようとする企みが見え見えでした。
そしたら母は後日兄に「〇〇(僕の名前)が遺産は全額貰うからな!とか偉そうな事言ってきてる」と、母から僕の口座に手を出そうとしてきた事は棚に上げて、事実を捻じ曲げた事を伝えたんです。
それを一方的に信じ切った兄は、いきなり電話でものすごい形相で「何様のつもりやー!」と怒鳴ってきました。
こちらが落ち着くように促しても罵声を浴び続けてきました。
僕はそれこそADHDの影響で会話のペースがやや遅く、対して兄は非常に多弁な為、口喧嘩ではまず負けてしまいます。
さんざん裁判でADHDを利用しようとしておきながら、いざとなったら結局ADHDの弱点を突いて僕の事を捻り潰そうとしてきたんです。
なんとか誤解は解けました。流石に兄も悪い事をしたと思ったらしく、その後母に遺産をちゃんと僕に渡すよう説得してくれました。
それ以降母からは何も言って来ることはなく、無事遺産を受け取る事が出来ました。
最後まで謝罪は無かったけどね。
僕はこの時あまりにもショックで、怒りを通り越してほとんど無感情状態になっていました。金さえ貰えればもうどうでもいいと思っていました。
結局、父方の叔父からの説得もあり、裁判は取りやめになりました。
これから
父のことは恨んでいません。
同居時代は何かと問題があった人だったけど、それでも最後まで必死に働いて家庭を支えてくれました。
善人面して子供を支配する事しか考えてない母よりずっと、僕が自立して生活できる為の支援をしてくれました。
母に強く反対された一人暮らしの資金を提供してくれたのも父でした。
父の死後も、遺産があるお陰でブラック会社をすぐやめることが出来ました。
家族には相変わらず、これだけのトラブルが起きても全く自分の反省はせず、いつまたトラブルを起こすか分からない母がいます。
母のイエスマンに終始して、さらに母をつけあがらせている兄がいます。
正直これ以上、この人らと上手く付き合っていく自信がありません。
そんな時に思い出すのが、父の遺言書に
「子供にはどんな困難にも負けずに力強く生きていってほしい」
と記してあったことです。
その言葉を胸にこれからも生きて行きます。